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新型コロナウイルス時代を 生きのびるために

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「養生訓」の解説より 松田道雄訳 中央公論新社

 

○いまの家庭医学書はほとんどが、切り売り原稿の集積で、いかに生きるかという一貫した世界観をもたない。『養生訓』は80年以上を生きて幸福である人間の、ゆるぎない世界観で貫かれている。 

○なにか変わったことがあったら専門家に相談するのがよいという、医者への依存をとく家庭医学書と違って、『養生訓』には、自分のからだを健康にたもつのは自分の倫理的な責任であるというかたい信念がある。 

○世界観と学問と実践とが寸分のすき間なく組みあわされている『養生訓』は、読むものに大きな信頼感をよびおこしたにちがいない。 

○近代の学問を身につけ、最新の科学を知っている人が、自分の死期をまったく病院の医者にゆだね、家族から隔離され、酸素テントの中にくるしい呼吸をつづけ、腕は固定されて点滴をうけ、気管支は切開され、腹腔には還流のゴム管を挿入され、ひきのばされる瀕死にくるしみながら絶命せねばならぬのは、むしろ無残ではないか。 

○『養生訓』は自分の健康についての自己決定権のみごとな手本である。 

○人間は一生のあいだに、なんどかからだの調子のわるくなることがある。最後は命とりの病気にかかるわけだが、それまでの病気のおおくは自然になおるものである。ことに内科的な疾患の場合にはそうである。薬らしい薬のなかった時代に、私たちの祖先は病気の自然の経過を体験するしかなかった。『薬をのまないで自然になおる病気が多い』ということをおおくの人が体験した。 

○医者が自然治癒をゆるさなくなったのである。医者をたずねてきたどんな病人にも、医者は治療する。「これは何もしないで寝ていればなおりますよ」という医者は、まずいない。

○病気は自然になおるものだという体験をもたない人は、病気になったら医者にかからなければならないという気持ちになり、さらに治療は一切医者にまかせるべきだと思うようになる。自己決定権はまったくわすれられてしまう。 

○不必要な治療は、医者の悪意といったものでなく、産業と化した医療の公害とかんがえるべきものだろう。産業による地表の汚染にたいするとおなじく、消費者の立場にある病人は、充分の主体性をもって、自衛のために立ちむかわねばならない。

○異常があったら、いちもにもなく医者にかけつけることをやめたら、医者はこれほどいそがしくなるはずはない。自分は自分のからだの主人であるという自信を一般の人間がなくしてしまったことにその原因があるといわなければならない。

○心はからだの主人であるという気構えは、こんにちのすべての老年の人がもつべきものだ。世俗から解放された晩年こそ、自分の生活を自分の思うとおりに営むことのできるときである。人生のフィナーレは自分のソロでかざるべきである。けいこ中のわかい医者や、人手不足で追いまくられている看護婦たちの「多忙な業務」の翻弄にゆだねるべきではない。『養生訓』は、ただ長命を願うためにではなく、私たちの祖先がおくった毅然とした晩年の姿を知るためによむべきである。

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